2007年06月17日

マーケティング的視点で捉えた鎌倉都市鎌倉(2) 転換期は1975年説

観光のスタイルとして、昔からあるのが、「見る」、「買う」、「食べる」のいわゆる物見遊山型である。また、最近では、「知る」、「体験する」、「交わる」といった能動的なスタイルが増えてきている。

鎌倉の観光スタイルがどうかというと、30年以上前は「見る」が中心であったが、次第に「買う」、「食べる」が追従してきた印象だ。特に、そのエポックとなったのが、1975年であるという仮説を私は唱えている。

どうして1975年なのかという前に、簡単な鎌倉観光の歴史にふれておこう。

鎌倉は、鎌倉幕府が滅びて以降、町の衰退が進み、江戸時代には、閑散とした農漁村に成り下がっていた。かつても面影はなくなり、特に、寺社の衰退は激しく、明治維新に残ったものは、ピーク時の2,3割程度に過ぎない。
その間、地震や山津波などの天災も多かったために、多くの寺社が地中に埋没し、古都というよりは、遺跡都市といった方がいいかもしれない。

明治に入り、新政府が横須賀に軍港をつくることで、鎌倉がふたたび脚光を浴びることになる。東京から横須賀軍港まで、直通する鉄道建設が急がれ、明治22年という早い時期に、東海道線の大船と横須賀を結ぶ横須賀線が開業した。

横須賀線開業を境に、鎌倉は、避暑地・保養地として注目を集めるようになった。当時、政府が、海水浴を健康増進のため、推進していたこともあり、この頃から海水浴客が訪れるようになる。
また、大仏や鶴岡八幡宮、江ノ島(藤沢市)などへも、横須賀線を利用した観光客が訪れるようになり、今のかたちに近い観光地・鎌倉が形成された。鎌倉と江ノ島、藤沢を結ぶ江ノ電も明治43年には全通している。

既に、昭和の初期には、市内定期遊覧バスが運転されており、おそらく大正末期には、都心から手軽に行ける日帰り観光地として、賑わいはじめたと思われる。

現在、横須賀線の東京−鎌倉間の所要時間は、55分前後だが、昭和初期にすでに今と同じ時間で結んでいたから驚きだ。当時としては、大変な快速ぶりである。

戦後に入っても、鎌倉は、夏は、海水浴・避暑地、また、通年、手軽な日帰り観光地として賑わっていたが、八幡宮や大仏などの名所旧跡めぐりや江ノ島などの景観地めぐりが中心であった。

私は1968年頃からの鎌倉を知っているが、当時は、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路に、貝細工の土産物店や鎌倉彫専門店、八幡宮の近くに飲食店(「天金」や「峰本」)がある程度。今では原宿竹下通りも顔負けの観光ストリートとなった小町通りは、地元向けの商店街であり、通りを半分も歩けば、商店はなくなり、一般の住宅街であった。観光客相手の土産物屋もほとんどなかった時代である。

前置きが長くなったが、長く続いた「見る」が中心の鎌倉観光に変化が訪れたのが、1975年である。鎌倉観光にとって1975年は、エポックであると考えるが、その背景などについて書いてみる。

@ディスカバー・ジャパン・キャンペーン
当時の国鉄の旅行キャンペーンであるが、大阪万博以降、落ち込んだ利用者を回復させることが目的のものである。特に古い日本、懐かしい日本を再発見し、見直すのがコンセプトであり、角館、高山、金沢、木曽路、倉敷、萩、津和野などの小京都が脚光を浴びた。特に、若い女性たちが中心となってブームを先導した。そのなかには、古都である鎌倉も含まれ、後述するアンノン族と呼ばれる女性たちに京都と共に人気が出た。

Aアンノン族の登場
1970年には雑誌「an・an」、翌年には「non・no」が創刊された。新しいスタイルの女性ファッションマガジンだが、毎号のように、旅行が特集された。そのなかで、鎌倉は定期的に取り上げられるようになり、これまでの物見遊山と違う、新しい嗜好の鎌倉観光が紹介された。

B小町通りに飲食店や新しいスタイルのみやげ物店が増える
これまで、鎌倉には、飲食店が少なく、個性も乏しかったが、個性的な店が登場するようになる。たとえば現存するものとしては、小町通りにあるクレープ屋「コクリコ」、隣接するレザーショップの「WORK SHOP」(当時はモカシンなどなめし皮が流行った時代)などが1975年にオープン。これらの店は、まさにアンノン族の世界である。


C江ノ電ブーム 
1975年に突然江ノ電ブームが到来した。それまで、江ノ電は利用者減で、廃止も噂されていたが、江ノ電の極楽寺駅を舞台にした日本テレビ系ドラマ「俺たちの旅」が高視聴率で、観光客が江ノ電を利用するようになった。
また、この年の3月には、国内からSLが全廃され、SLが大ブームになったことも関係しているかもしれない。どちらにしても、江ノ電は、この後、利用者をいっきに増やすことになる。

このように、いくつかの要因が重なったおかげで、1975年頃から鎌倉は観光ブームを迎える。そして、これまでの「見る」だけからに代わる新しい観光スタイル、たとえばクレープのような当時、最先端の食の登場、鳩サブレーや古くからある煎餅や饅頭以外に洋風のお菓子(ニュージャーマンなど)などが登場するようになる。

その背景には、アンノン族に代表される新しいライフスタイルが、観光にも持ち込まれ、密接に関係してゆくようになった。また、週休二日制の導入が始まり、首都圏からの日帰り観光客が気軽に訪れるようになったことも関係しているかもしれない。

ディスカバージャパンを契機に、それまで古臭いイメージがあった鎌倉が若者に見直されるようになった。海岸は以前から若者で賑わっていたが、街中にはそれほど若者は多くなく、修学旅行生や地方からの団体客の方が目立った時代が続いていたが、1975年頃から人の流れが大きく変わった。
鎌倉はその後も、観光客が減ることなく、コンスタントに年平均2千万人前後の入り込み数を確保している。

posted by okusankankou at 15:44| Comment(0) | 鎌倉観光

2007年06月03日

マーケティング的視点で捉えた観光都市鎌倉(1)

鎌倉市は、毎年2千万前後の観光客がコンスタントに訪れる全国有数の観光地だ。私は、鎌倉市に1969年から住んでいるが、観光客相手のビジネスをしている訳ではないので、地元には「疎い」のがこれまでだった。しかし、観光関連のIT事業や地域再生などに携わる内に、今住んでいる鎌倉の観光に興味を持つようになった。

たとえば、観光客相手の新しい飲食店が開業すると、「ここは当たるか、外れるか」など、定期的に観測していると大概わかるようになってくる。また、当たる、外れるには、一定の法則があり、この法則は、全国どこの観光地でも共通する傾向があることにも気づくようになった。これは、マーケティング的な視点でも大変面白く、地元を知らずして、観光ビジネスは語れないと思うようになり、今日に至っている。

本題に入る前に、観光事業の恩恵を被っていないふつうの鎌倉市住民にとって、観光客は、「ありがたくない」というのが本音のところだ。なぜなら、面積39キロ平米(小樽市の1/6程度)の狭い土地に、年間2千万の人が押しかける。面積当たりの混雑度(観光客数/365+人口/面積)でいえば5774で、この数字は、小樽市が719、金沢市が955、京都市が2458なのでいかに密集しているかがおわかりであろう。

そのため、市内は、交通渋滞、歩行空間の不足が慢性的に起こる。鎌倉はもともと道が狭い上、古都保存や景観維持のため、道路拡張や高層建築(5階建て以上はダメ)に対するきびしい規制が法律で義務付けられていまる。特に週末の混雑度はひどく、袋小路状態になってしまう(鎌倉には小路とつくところが多い)。

私が住んでいる地域(山の中)から鎌倉駅まで出るには、通常なら車で10分、徒歩とバスを乗り継いでも20分程度のところだが、週末には、車で30分以上、バスも混雑で、定時発着できないため、当てにならず、結局30分かけて歩くのが常になってしまった。また、正月はマイカー乗り入れが禁止され、住民でも街なかへ車で行くことができず、陸の孤島化する。

地元民にとって、折角の週末休日が観光客で占められ、真っ当な生活が送れず、個人宅の庭などにも無断で立ち入り、写真を撮るものや、観光ゴミなどの問題もあり、観光と地元が敵対しているのが現状だ。

鎌倉観光に対しては、概ね地元は冷ややかな視線を送り、一部の観光業者(最近は圧倒的に都内など外部からの参入業者)を中心に、観光が成立しており、飲食店や商店でも地域住民と観光客向けのものとに分断されている。

「鎌倉観光」は実態がみにくく、歪みや虚の部分が強くなっていると思う。そのあたりについて、正面からこれまで触れた文献やデータはなく、「今さら」であり、暗黙の了解で過されていたかもしれない。

この「マーケティング的視点で捉えた観光都市鎌倉」では、鎌倉観光の実態を掘り下げ、実情を紹介しながら、検証・分析し、地域観光マーケティングに役立てることができればと思う。
連載は、毎週日曜日を予定している。
posted by okusankankou at 11:43| Comment(0) | 鎌倉観光